日本とイランの関係

イランと日本の友好関係には、古代シルクロード時代まで遡る長い歴史がありますが、現代における「緊密な友好」の決定的なきっかけは、1953年の「日章丸事件」だそうです。

第二次世界大戦後、イランと日本の絆を決定づけたのは、出光興産の創業者・出光佐三による「日章丸事件」です。• 背景: 当時、イランは石油の国有化を宣言しましたが、これに反対するイギリスが海軍を動員してイラン産原油の輸出を阻止(海上封鎖)していました。• 決死の航海: 日本も戦後の混乱期にありましたが、出光は「イランの自由を助ける」という大義のもと、自社のタンカー「日章丸」を極秘でイランへ派遣しました。イギリス海軍の撃沈の脅威をかいくぐり、イラン産原油を日本へ持ち帰ることに成功しました。• イラン側の反応: 世界中がイギリスを恐れてイランに手を貸さない中、リスクを冒してまで助けに来た日本の行動にイラン国民は深く感動しました。この出来事は現在でもイランで語り継がれており、強い親日感情の根源となっています。

イラン革命(1979年)以降、イランとアメリカの関係が悪化した後も、日本は独自の外交姿勢を保ちました。日本は米国と同盟関係にありながら、イランとも対話を継続する「架け橋」のような役割を担ってきました。この中立的かつ互恵的な姿勢が、イラン政府からの信頼に繋がっています。イランの人々にとって、日本は「困難な時に助けてくれた真の友人」というイメージが強いのが特徴です。

1951年、イランのモサデク首相は「石油はイラン国民のものだ」として、イギリス資本の石油会社を国有化しました。怒ったイギリスは海軍を派遣し、ペルシャ湾を封鎖。イランから石油を持ち出そうとする船は「盗品運搬車」とみなして撃沈すると世界に警告しました。外貨が入らなくなったイランは経済的に破綻寸前まで追い込まれ、国際社会からも孤立していました。出光興産の創業者、出光佐三はこの状況を見て**「弱者が強者に虐げられているのを黙って見ていられない」と考えました。「日本も戦敗国として苦しんでいるが、イランもまた帝国主義に苦しんでいる。今こそ日本人が勇気を示す時だ」

出光は、もし撃沈されたり拿捕されたりすれば、会社が倒産するだけでなく、日本が国際問題に巻き込まれるリスクがあることを承知の上で、船長以下乗組員にこう告げました。「この航海は商売ではない。イラン国民を救い、日本人の気概を示すための戦いだ」とし、1953年、日章丸は行き先を隠して神戸港を出港しました。イギリス海軍のレーダーを避けるため、浅瀬や危険な海域をあえて進むという、綱渡りの航海を続けました。イランのアバダン港に到着した際、現地の人々は「本当に来てくれたのか!」と熱狂的に歓迎しました。帰国後、イギリスから訴えられましたが、日本の裁判所は「この取引は正当である」との判決を下しました。これが「小が大を飲み込んだ」快挙として、世界中に驚きを与えたのです。

このエピソードは、イランでは学校の教科書に近い扱いで語り継がれてきました。2010年代以降の緊迫した情勢下でも、日本の総理大臣がイランを訪問したり、特使を送ったりできるのは、「あの時助けてくれた日本」という強固な信頼の土台があるからです。映画・小説: 日本でも、この物語をモデルにした百田尚樹氏の小説『海賊とよばれた男』がベストセラーになり、映画化もされました。出光佐三という人物は、利益よりも「士魂商才(武士の魂と商人の才能)」を重んじた、非常にユニークな経営者でした。